【ダンロップテントの思い出】
あれは忘れもしない1983年…・と、こういう出だしで良かったのでしたっけ。
前年の自然保護監視員のアルバイトが引き金となって、まるで吸い寄せられるように山への思いを強めた僕が、テント山行の装備一式を揃えたのがこの年の夏。
まず最初の山行として白馬岳から針ノ木岳の後立山縦走の計画を立てた。
初めての重装備に体を慣らすため一泊目を白馬尻とする5泊6日の余裕のスケジュールである。
白馬尻から大雪渓を上がって白馬岳で一泊、翌朝は極上の天気で撮影に張り切りすぎ、唐沢岳へは夕刻ヘロヘロになって到着。
その日は水場まで下るのでさえ辛かった記憶が今でも膝に残っている。
さて、ここまでは天候もそこそこ安定していたのだけれど、残念ながら翌朝は雨。
出発はしたものの風雨ともますます強まりメガネの僕は前も見えないような状況に陥った。
「急ぐ旅ではない」と早くも五竜の小屋で今日の行程を終了し幕営受付へ。
今はどうか知らないが、当時ここのテント場は幕営場所を番号で指定された。
「No.1」・・こんなに早い時間に受付をする人はいないのだ。
幕営指定場所は稜線上、風雨をまともに食らう場所にあった。
僕のテントは山岳用テントとして当時絶大なシェアを誇っていたダンロップの2人用。
もちろん新品である。
ロープ無しで立てられるのが売りである自立式のこのテントも、何かで地面に固定しなければ自立したままぶっ飛んでいってしまう。
付属品としてぺグが4本付属していたが、大きな石がゴロゴロしている地面にぺグをさしたところでたいして効くものではない。
ペグの周りに石を寄せ集めるというなんとも不安定な方法で固定させて風に対抗するしかなかった。
夜になって風雨はさらに強くなった。
テントは風でひしゃげて、寝ている僕の顔にべっとりと濡れた生地が貼り付いてくる。
かろうじて住人の体重でそこに存在しうるテント。
一度固定したペグも直ぐに緩んでしまうので、何度となく外に出てそれを積み直さなければならない。
ペグに重しを載せるだけでは風には対抗できず、最終的にはテントの生地の上にも石を載せた。
やがてテントへの浸水も始まった。
石で生地が擦られて穴か空いたようだ。
シュラフカバーなどというものは用意しておらず、シュラフも体も濡れ放題。
そうしてぶよぶよになった足で、外にでて石の積み直しをするものだから知らぬうちに足の裏も切ってしまった。「うーむ、テント泊というものはこういうものか。これに耐えなければならないのね…」と依然として強風により断続的にひしゃげるテントの中で僕はぐしょぐしょになりながら何とか朝まで耐えたのである。
濃いガスの中視界はないが、確かに明るくなってきた。
「んっ?」 様子が昨日の夕方と違っている。周りにずいぶん張ってあったテントがすっかり消えているのだ。
どうやらあの風雨に耐えかね。
大多数のテントの住人は撤収し小屋に逃げたらしい…
な、なるほど、そういうのもアリかい・・(^^;;;
夜が明けても風雨は収まらなかった。
少なくとも今日一日は天気の回復はなさそうだ。
もう一夜このテントで越すのは嫌だが、かといって八方尾根を下るのも癪なので、小屋に一泊して様子をみることにした。
翌朝、雨は止んではいなかったが、キレットを超えて冷池まで。そこで一泊。
悲しいかな・・・小屋での雨の停滞に慣れてしまった僕の体は、もうすっかり早起きを忘れていた。
「晴れてるジャン」 と気が付いたときにはもうあたりはすっかり明るかった。
後立山の稜線はすっかり夏の青空を取り戻していたのだ。
数日前、晴れていた白馬岳で見たのとは姿も大きさも全然違う剣岳が眼前に立っている。
うろたえたところで後の祭りだ。
鹿島槍の美しい姿を眺めながら爺が岳を越え、そして結局針の木は諦め、種池から柏原新道を扇沢へと下って僕のはじめてのテント山行は終わった。
あたりまえのことだが自立式のテントでもロープでの固定は必要だったのである。
以後はロープでの補強もすることにして、風によるトラブルは無くなった。
万一に備えてシュラフカバーも携行することにした。
夜中に外へ出ても足を切らないようにサンダルも…人間、失敗から学ぶものは数多い(^^;;;
新品のテントが最初の山行でぼろぼろになってしまったが、買いなおす予算は無い。
補修を重ねながら以後15年ほど、おそらく100泊以上は使ったはずだ。
こうなるともう自宅も同然で、テントを張って中に入ると家に帰ったような安心感に包まれたものだ。
1980年代には山のテント場を席巻していたオレンジ色に青いフライのダンロップも90年代に入るとめっきり数が減り。
20世紀末にはもうあまり見かけないくらいに減ってしまった。
僕も21世紀にはいってテントを買い換えた。
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